2017年8月30日

やる気がなくなったら…。「誰かのため」に働くことは基本的に気持ち良い

投稿者: sanoe

仕事は、「喜んでくれる誰か」がいるから成り立っています。
けれども毎日の仕事が忙しくなってしまうと、
ただ淡々とノルマを果たすことが目的になり惰性で続けてしまうこともあるのでは。
すると仕事で喜んでくれる「誰か」のことを忘れてしまいがちです。

「誰か」の存在がなければただの自己満足。
しかし、人は基本的に、誰かのために頑張ることを楽しめる存在なのではないかと思うのです。
仕事にやる気がなくなってしまった時に思い出すと、少しだけ重い腰が上がるかもしれません。

ネットでは「誰かのため」に怒る人がいっぱい


「誰かのため」に働くことは、基本的に気持ちが良いことなのだと思います。
以前、このような内容のブログを読んだことがあります。

「不倫を叩く人は、絶対的な善を盾にして、正論で加害者を攻めることができる。それが快感なのだ」

心の中で「いいね!」しました。

不倫した当人、不倫された当人とは全く関係のない第三者が、
不倫した人をネット上で叩く光景はよく見られます。
圧倒的な善の盾に加えて、
「不倫された被害者のため」という大義名分もあるのではと思います。

別に不倫された奥さんが望んでもいないだろうに、
奥さんに代わって旦那と愛人をつるし上げ。
「被害者のために怒っている自分」に陶酔しているパターンでしょう。
この陶酔、行き過ぎるとただの迷惑な人。

しかし「誰かのために」という原動力を正しく使うことができれば、
仕事のクオリティも上がるのではと思うのです。

仕事に心を込めていますか?


「応援してくれたファンのために頑張る」
「感動してもらいたい」
「自分が頑張ることで、パワーを受け取ってもらえれば」
優勝したスポーツ選手が、インタビューでこのように仰ることがあると思います。

良いパフォーマンスをして優勝したら、まず自分自身が嬉しいはず。
けれども自分以外の誰かの存在が語られることが多いです。

選手と観客の間で直接のやりとりはないのに、
「誰かのために」という想いがある選手のパフォーマンスは見るだけで理由なく感動します。

きっとスポーツだけではないでしょう。
料理、絵や音楽、本、映画、洋服、アクセサリーなど、あらゆるものもきっと同じ。

先日、とても素敵なアートを拝見しました。
作家さんは鑑賞してくれる人に「何かを受け取ってほしい」と願って描かれていました。
心が込められた作品は、説明がなくても人を惹き付けるようです。

仕事は、誰か(エンドユーザー)のため。
趣味は、自分(自己満足)のため。

もしも趣味を仕事にしたいと思うなら、
「自分のため」から「誰かのため」に意識を変えることが第一歩かもしれません。

最初は仕事としてやっていけるほどのクオリティに到底及ばなかったとしても、
地道な意識の積み重ねが、いずれテクニック以上に雄弁に受け取り手へ
メッセージを届けるのではないかと思うのです。

もちろん「誰かのため」に頑張ることは、独りよがりな頑張りよりもパワーが出るはず。

…というわけで、クオリティが到底及ばない私も、まずは意識の改革から。

 

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